■研究ノート■産業考古学第一世代考―学(ディシプリン)の形成に向けて
産業考古学第一世代考―学(ディシプリン)の形成に向けて
Study on First-generation Japanese Industrial Archaeologists - toward the formation of the discipline
種田明(跡見学園女子大学)
Akira OITA (Atomi University)
要旨
本稿は、産業考古学形成期の第一世代の先学4名(小松芳喬、山崎俊雄、大橋周治、飯塚一雄)を考論する。小松(経済史)は産業考古学を初めて日本に紹介し、山崎(技術史)は博物館明治村「機械館」を創設した。大橋(経済学)は調査研究を基礎づけ、飯塚(土木史)は土木遺産・景観の保存や重要性を広く提唱した。彼らの書簡・論説・論稿の中には、今日の斯学の位置づけに及ぶ貴重な要論や指摘が、再考・再議論すべきものが多々あると考えている。
キーワード
第一世代、調査(フィールドワーク)補助科学、保存と利活用
Key Words
the first generation, research/fieldwork, subsidiary discipline, conservation and reuse
小松芳喬・草創期の学のバックボーン形成
小松による学士院紀要論文「イギリスの産業考古学」は、学会創立後10年目(1987年)に刊行されたものであった。本文全56頁(英文要旨を除き、追記3頁を含む)におよぶ論稿は、以下の構成になっている:
はしがき、二産業考古学の定義、三産業考古学の生誕、四産業考古学前史、五産業遺産の調査と保存、六産業考古学専門誌の刊行、七全国的学会の創立とその足跡、八産業考古学専門二誌の競合、九イギリス産業考古学の現状と将来、一〇結び
小松自身による‘定義’は記されていないが、氏が賛同したのは以下の二つである:
1)...産業考古学の領域を、「動力源」、「採取業」、「製造業」、「運輸」、「公益事業」、「商業用建造物」、「社会的建造物」の七種に大別し、[Minchinton2の引用]
/産業考古学の記述の或るものは、上述の範疇の一つまたはそれ以上を考察し、他のものは、特定地域に見ることのできる全領域を取り扱っている。/と記しているが、或いは、これがもっとも賢明な途であるかも
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しれないのである。(下線は種田による:以下同)
2)...HistoricalAssociationの高校以下の歴史教育に対する影響力の大きさから見て、彼女の短文の中から産業考古学の任務を要約している最終部分を左に紹介するのは無意味ではなかろう。[MarilynPalmerの引用]/産業考古学は産業記念物の保存よりずっと多くのことに関与する複合かつ多彩な学問分野である。産業記念物は過去を知る手がかりであり、産業景観・・・の研究を刺するものにすぎない。調査と記録とが産業考古学に必要不可欠な側面であるのは、土地の開発が予想されるところの他の実地調査を行なう学問すべてと同様であるが、調査と記録とは元来究極の目的ではなく、...記録作成の手段である。産業考古学の目的は、実地ならびに文献両者の証憑を使用して、過去に産業活動が営まれた環境一人口の大多数が、少なくとも前世紀などに、生涯の大部分を過ごした環境一を再現することである。
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調査と保存’では、日本においては未だ作成されていないデータベースと、欧米各国が産業遺産保存へ向けて動き出し国際的組織TICCIH(第
1回FICCIMは1973年、産業遺産という呼称は
[写真1]小松からの資料の一部:種田蔵
1978年から)の形成に至っていることが紹介されている。
・・・そこでIMS(産業記念物調査1963年設立)発足に際して、保存の適否を問わず、あらゆる種類の産業記念物の目録を作成するよう決定されたが、その管理は大問題であったから、1965年、IMSと分離し、バアス大学に移管された。これがNRIM(全国産業記念物記録)である。NIRMはCBAの立案した簡単なカアドで、現地で実地調査に従事したアマチュアの記入したものがバアス大学のCenterfortheStudyoftheHistoryofTechnologyに集められ、整理番号を付せられたものである。
記入を行なった各地のアマチュアの質が同一であるとは期待できず、従って一枚一枚の記録の質に差が存在していることは否定できない。Buchananは1980年に約10,000枚の記録が集まっていると記しているが、それ以後今日までに増加した数はおそらく夥しいとは言えず、地方によっては依然として記録の質に問題が残っているものの如くである。
小松は、産業考古学に関しては「本業以上に執筆機会があり」、「ペンザンスで依頼された昨夏の報告の原稿は、漸くこの程写真も整備いたしましたので、一、二週間のうちに、タイプを終えて、ポォルスティイヴンスに送るつもりです.(IndArchReviewに掲載予定)」と記し、斯学への期待と想いをすでに1970年代末には内外に発信していた。
小松の筆による二つの論説(公明新聞oと朝日新聞:[写真1])の要点をひとまとめにしたのが『百科年鑑』であろう。氏は年鑑の“経済学”(項目)に、産業考古学を【定義】【学界へのデビュー】【イギリスの現状】【欧米の現状】【日本の現状】【反省と展望】<参考文献>の順で論じている。氏の主潮の要点は【反省と展望】に全てある:
イギリスの産業考古学は現在一種のブームを迎えている。一般市民のおびただしい関心は、観光事業との結びつきを深め、産業
筆者撮影(2014.10.26.)
遺跡・遺物の保存・展覧を営利事業として経営し成功している例も稀有ではない。もちろん、それが価値ある記念物ならばむしろ結構であるが、首肯しがたいものもあり、産業考古学に大方が幻滅を感ずる日が来ないとの保証はない。また、このブームに酔って、産業考古学者が、産業遺跡・遺物案内の作成で能事終われりとするおそれも絶無ではない。
そもそも産業考古学に社会がもっとも期待するところのものは、一方において、開発計画の公正なモニターとして第1級の産業遺跡の消滅を防止することであり、他方において、文献なり数字なりの欠陥を補正する史料の提供により、経済史、社会史、産業史技術史などの補助科学としての任務を全うすることである。今日、日本の産業考古学とイギリスの産業考古学との間に径庭の存するのは否定すべくもないが、上記のごとき要請を脳裡に刻んで常に忘れることなく、安易な道に誘い込まれることがなければ、彼我の距離の縮小・消滅には必ずしも長年月を要するとのみ限らないであろう。歴史家として、小松は証拠(史資料)がなければ議論は出来ないとする立場を貫いた。証拠の列に連なったのが産業遺産であり、これまで多くの史家が扱えなかった史料であった。「僕は紹介史学者だから・・・」と小松は自嘲気味に言われるが、その眼は史学の正鵠を射ていたと私はみている。エヴィデンス
山崎俊雄・各地を巡り、最も多くを見聞
山崎の主要な仕事は、東工大の後継者・木本忠昭の手で一冊12にまとめられている。全8章446頁のうちの1章pp.317-374(第6章産業考古学論:世界博覧会と技術進歩、二技術記念物保存の国民的課題、三技術記念物保存国際会議参加記、四産業考古学の現状と課題)が、山崎産業考古学の基軸である。山崎による定義をみてみる:産業考古学は考古学じたい(ママ)がそうであるように産業史研究の補助科学である。発掘、実測、記録、考証などの実証的手法がなによりも重要である。調査の対象は労働手段が中心となり、労働手段およびその体系を開発した個人、集団、地域の創意を尊重しつつ、なるべく現地に旧状どおりに保存または復元する。
それによって産業史、技術史あるいは生産力史の教育と研究に実証性を高めることができる。そして最終的にはその成果を広く永く国民の貴重な文化財とさせる方法と政策を研究するのが目的である。したがって産業考古学の定義は、私見によれば、「あらゆる実証的方法を駆使し、過去の現存労働手段を対象としてその歴史的意義を解明し、これらを国民の文化遺産として永久に保存する方策を研究する科学」となる。.../現在はまだ趣味か骨とうの一種、そのマニアは日曜歴史家とみなされ、大学では専攻者はひとりもいない。しかしその裾野の広い大衆的基盤を考えるならば、若い時[写真2]明治村「機械館」
出所:http://www.meijimura.com/english/openwin/s043.html(検索2014.11.22.)
から手近に一度は試みても悔いのない現代の学問であろう。未開拓だけにテーマは無限である。13
ここに端的に示されているように、本来技術史研究者であった山崎にとって、産業遺産は最重要な(技術史の)物証であったのだろう。1970年代当時はなお「技術記念物」と称されていた産業遺産の、社会的文化的地位の向上と産業考古学の市民権獲得を重ね合わせて、そのために最大限の努力を尽くされたのである。
たとえばそれは博物館明治村の設立(1965年)準備段階で、「鉄道寮新橋工場」移設に際し‘建物’だけの移設でなく内部をもふくめ「機械館」とし、破棄されスクラップとなろうとした貴重な機械類(産業遺産)を「できるだけ、可能な限り詰め込んだ」(山崎の口癖:慶應義塾大学大学院講義科目「技術史」1973~76年の間に幾度も筆者聴取)という。また、産業考古学会創立に際しては、明治村設立に関わった有力者や建築史・技術史研究者の多数を“学会顧問”に迎えることができたのも、山崎の尽力があってのものであった。[たとえば明治村初代館長谷口吉郎(1904-79)は学会初代会長であった。関野克、村松貞次郎が創立時に、他に第一世代(一時期会員であった、また現会員含む)には網野善彦、飯田喜四郎、飯田賢一、内田星美、大淀昇一、奥村正二、小倉欣一、金子六郎、黒岩俊郎、作道洋太郎、佐々木亨(中部産業遺産研究会顧問)、庄谷邦幸、瀧本正二、館充、並川宏彦、馬場正孝、原田勝正、藤森照信、前田清志、湯浅光朝らが連なっている。]
学会のロゴ(現在のものは川上顕治郎作成)を審議した幹事会で、山崎は一人「勾玉」を、日本の技術の原点であるからデザインに採用すべきだと熱弁していたことを記憶している。しかしながら、氏の最大の功績は飯塚と並んで、産官民のさまざまな雑誌に“記念物めぐり14を連載し、産業遺産の啓蒙・普及に資したところ、そして
フィールドワーク
調査・研究時に人脈を拡げ学会に巻き込んだところにあったと私は考えている。
大橋周治・学のグランドデザインを提示
その人柄を知る方はみな「熱い人」だと言う。1978年のTICCIM(のちTIOCIH)でお会いし、約3週間調査や講演など行動を共にしたとき、私も同じく熱い人だと感じた。「君は生意気な口をきくから気に入った」という大橋からの手紙(“表題”入り:[写真3]1979年5月21日付)が以下である:
日本における産業考古学の課題(“表題")I.本年4月~12月の間、欧州各国における産業遺産の保存・研究状況を視察する機会をもった。その間ドイツでも他の国々でもそれぞれの産業考古学者の温い援助を受けたことに謝意を表する。そして一面では各国の夫々に行きとどいた保存の仕事から大きな感銘と教訓をえたが、他面では産業遺産保存の困難さは、急速な近代化100年の間に設備等のscrapandbuildをひんぱんに繰り返した日本に独得なものでは必ずしもないことも知りえた。たとえばZementationfurnaceSheffield-PuddlingfurnaceがSwedenのSmahammar(スペルは全て(ママ)である)Burkに辛うじて一基のみ保存されたという事情は予想もしなかったことであり、反射炉(AirFurnace)に至っては、日本にのみ残存するのではないかという認識をもって帰国した。
日本の産業考古学が対象とすべき時期は、破壊がすでに大々的に進行してしまったために、主として近代化前におかれざるをえないことをやや強調しすぎたTICCIMへ提出の拙稿「日本報告」は、上記の認識をもふくめて、一定の修正を必要とすると考える。
II.-1.日本の産業考古学は、自国の特異な工業近代化過程を解明するという点で、われわれ日本人にとって勿論重要な意味をもつが、それは次の諸関点からみて、国際的にも重要な意義をもつ。
-2日本は近代化100年の過程で、継続的に最も大量に欧米の科学・技術をドン欲に摂取して、現在のところ、非欧米世界で唯一高度産業社会に到達している国である。その科学・技術の摂取は限られた特定国からでなく、ほとんどすべての先進工業国からであったことも重要な特徴である。その
過程で欧米から輸入もしくは自製した設備機械等の多くはたしかに既に大量に破壊し去られたが、幸いに保存しえたものもあり、こんごの保存努力も加えて、すでに夫々の母国では損滅した設備機械等が日本で保存されるという可能性もかなりありう(ママ)ことである。
-3.電力産業、電気機器、エレクトロニクス等、日本におけるスタートの時期が欧米とそれほどへだたりのない産業分野については、その初期に属する諸産業遺産は国際的意味を充分に持つ。
-4日本では欧米の産業技術、設備機械等を導入する場合、しばしばごく早い時期から、資源・市場その他諸社会的条件に応じて、独自の設計変更・改良がおこなわれている。この過程を具体的に解明研究(ママ)することは、国際的技術移転とくに文化圏を異にする民族間、経済発展段階を異にする国の間のそれを解明する上で重要であり、それは「南北問題」という優れて現代的課題につながる。
-5.欧米で形成された大量生産技術を大量しかも短期間に摂取しただけに、そのメリットと共にデメリットの面も最も顕著に日本社会に刻印を残してきたことも忘れるべきでない。
III.-1.近代化前日本の科学・技術をその社会的文化的背景との関連で研究することは、何故にこの国が他のアジア・アフリカ諸民族とは異って、ごく短期間に近代化過程を通過しえたかを解明する上で重要な(ママ)欠かすことができない。それは日本人の「器用さ」・「物まね上手」といった俗説によってはもちろん、明治維新いらい国が一貫して強力に近代化政策を推進したという従来の通説と事実のみをもって説明されえているとは考えられない。
2原始日本はアジア大陸とくに当時としては高い文化水準にあった中国から農工をふくめほとんどの産業技術を受入れて文明への最初のテーク・オフをとげたが、その産業技術がその後1000年余の間、島国のなかで、どのように停滞したのか、どのような面で独自の発展をとげたのかは、未だ全体として体系的には解明されたとはいえない。
-3.日本が西欧文化と最初に直接接■(ママ)[触]したのは1500~1600年代であり、キリスト教の一時急速な普及と共に、銃砲・火薬、時計、ネジ・歯車、冶金、印刷、医薬等の技術が多角的に入ってきたことは文献的にもの(ママ)上でも知られている。しかしキリスト教が短期間にしかもきわめて過酷に禁圧されて鎖国に至った事情もあってか、その間の事情を伝える文献資料はきわめて乏しい。1500~1600年代に短期に多面的に入ってきたと考えられる西欧の科学・技術が、1850年代までの鎖国下の日本社会内部で、どのような脈絡をもって、諸産業分野の独自の技術発展に直接間接の影共(ママ)[響]をおよぼしたのか、そしてどこに限界があったのか?そのあたりの解明も日本では未だほとんどなせ(ママ)れていない。IV.上述のように、日本の産業考古学はこの国の近代化過程そのものと共に(ママ)その前提となった近代化前の双方にわたって解明の武器を与えることを課題とする。そして、日本社会が欧米諸国とも非欧米の多数途上国とも異る近代化(ママ)パターンの近代化過程をたどったということのために、その負った課題は国際性を持つと言えよう。以上(以下の私信・追記・署名は省略する)。」
大橋は、すでに同趣旨で会報No.6巻頭に論稿「日本における産業考古学の課題第二年度に向けて」15を書いている。そこでは1保存・研究の対象とする時代について2産業考古学の現代的意義に論点は絞られている。1では金属精錬(たたら)と揚水機(水車・ダイロ)を例に近代化前も対象であると述べ、2では「...二一世紀の要求している新しい産業技術の因子を前近代の保存・研究対象のうちに見出すことのなかにある」としている。
私宛の「論説手紙」は、論稿で言い足りなかったことを開陳するための草稿であろう。大橋最後
[写真3]大橋から種田宛の書簡
筆者撮影(2014.10.26.)
の著作の「むすび」末尾にも氏のグランドデザインが、すなわち(産業考古学の意義と課題は)「...現代日本の産業と文化を世界のなかに正確に位置づけて評価する・・・」16ことである、と記されている。
飯塚一雄・土木遺産研究を先駆した人
彼の人柄について天野武弘は「飯塚氏は、ジャーナリスト出身の気質からであろうか、常に正確さを求める調査を第一とし、事前の下調べを怠らなかった」17という。その一例と言えるか「...昨年、貴方が会報に紹介されていた白鹿記念酒造博物館をはじめとし、灘、伊丹の酒造関係資料館を回ってきました。小文18を書きましたので同封いたします。...」19と、飯塚は埋め草の拙稿(短報)も見逃さないのである。天野は続けて
・・・一般に産業遺産への関心がはしりの頃から全国各地を調査され、「技術史の旅」と題する雑誌連載を長く続けられ、産業遺産研究の先覚者として一目置かれる存在であった。飯塚氏の著作は膨大な数に上るが、産業考古学会会報『産業考古学』第80号(1996年5月)に内田星美が詳しく業績を記しているので参照されたい。17
[写真4]土木遺産を語る飯塚
20
と論稿
れている:
※年~日本は集団の作品
「大きな芸術性の発揮を
出所:注(20)
言うまでもなく飯塚の調査の真ん中には土木遺産があった。「私は幼い頃、箱根山の近くに親の実家があった関係で、祖母に箱根用水の話をよく聞かされ、昔の土木工事にどこか神秘的な、畏れのようなイメージを持っていたのですね。これが私の土木への接触の原点です。」「・・・(「技術史の旅」20との)第一回も箱根用水からはじめました。」インタビューで語っている。飯塚を紹介するヘッドラインは以下である:
産業考古学という耳慣れない分野の研究が専門だ。各地の土木遺構を訪ね、復元、保存のために調査する。遺構の紹介にも余念がない。専門外の氏が土木史の世界を旅し続けることになったのは、“第二の自然”として形を残し、生活と産業の歴史、ふるさとの記憶を伝える土木景観への感動からだ。現代の土木が同じように風雪に耐えて残りうるのか。技術者に「自分たちの作品をつくるつもりで土木事業に取り組んでほしい」「作品としてこれほど張り合いのある仕事はないはず」と期待する。
20
(聞き手は本誌編集長、田辺昭次)飯塚が亡くなる3年前の正月、「謹賀新年.../下野紡績所遺跡の総合調査に追われたり、安来市の博物館(仮称:産業考古館)の監修を引き受けさせられたり・・・(ママ)、このところ従来とは違った忙しさが増してきました。・・・/同封の小文は、建設省関東地方建設局の情報誌“INFRA”の次号に掲載されるものですが、ご笑覧下さい。...」小文は「文化財としての土木遺産」(全7p.)で、専門外漢(上記)にもかかわらず、そこには専門家(例えば現会長伊東孝)と同趣旨の考察が記さ
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土木遺産の特徴(原文ゴチ)
第一に、それは土地と不可分の複合体であるということ。土木は、人間が自然に加えた技術行為であり、その遺跡・遺構は、大地に組み込まれた動かせないものとして存在する。またそれらは、単体として切り離せるものでなく、いろいろな機能の複合によって、目的を実現したものが多い。
これと関連して第二に、土木遺産は面としての広がりを持つシステムであることを大きな特徴とする。たとえば、よく知られ信玄堤(山梨県)は、龍王町地先の堤防の機能がすべてではなく、本支流にわたって設けられた水制工を含む広域の洪水制御システムとして、はじめて意味を持つ。灌漑用水や運河なども同様だ。特定の水門・堰堤などを貴重な遺構とするのは良いとしても、それらを含めた広域の施設全体の機能を考えなければ、土木遺産としての正しい評価はできない。
第三に、過去の土木構造物や施設は、建設当初と同じ状態では残っていない。
まずほとんどは時間とともに変改を受けている。老朽化あるいは災害による破壊のため、繰り返し改修されているのが普通だし、機能強化のための改造もある。したがって、その遺構・遺跡の実態を見極めるには、時間軸に沿って重層的に見る眼が必要となる。いつ、どのような改造・改修を受けて現在の姿になったか。それを探ることによって、各時代の技術や、その構造物・施設に求められた機能の変化を知ることができるだろう。
もう一つ、土木施設は地域との関わりが深いこと。それを抜きにして遺産としての意義は考えられないことを、あげておきたい。他の産業遺産、たとえば工場などでも、操業期間を通じて地域への影響、関わりは当然あったわけだが、土木の場合は特にそれが大きい。治水・利水・交通などの面で、直接的に広く深い効果を地域にもたらしただけでなく、第二の自然として、景観的にも人々に長く親しまれてきたからである。(同上p.34)
これらの特徴は土木だけでなく建築にもあてはまる。そして飯塚は小文の終わりで「地域の歴史とともにあった文化財(ゴチ)…土木遺産は大地に組み込まれたものであり、建設された原位置にあってこそ、その本来の意義を後世に伝えることができる。」(同p.7)と現地保存の重要性を言うのであった。
- リストです。
- リストです。
おわりに
ここにあげた4名の先学の想いは共通している。それは「産業考古学」の学問分野としての自立か、補助科学かを論ずるのではなく、日本および世界の歴史の証言である「産業遺産」の調査・研究・保存・利活用(教育を含む)への期待と情熱であった。もちろん4名以外にも学問分野確立への想いを表明している方は少なからずおられよう。ただ弱小学会がキラリと光るものを次世代に遺すという意味で小松・大橋の提言に沿い、山崎の「技術史散歩」と飯塚の「技術史の旅」を基に“日本産業遺産データベース”(仮称)を作成することが、私たち第二世代の喫緊の課題だと私は考えている。 (文中敬称略)
補論 日本産業遺産データベース”(仮)
最初にデータベース作成の必要性を主導したのは飯塚一雄と内田昌美、石田正治・天野武弘らである(1989/90~1990)
しかし1998年出来上がったものは「中部産業遺産研究会の7名が収集したデータであるので、中部圏にデータが偏っているのは当時としてはやむを得ないことであったが、…」「1999年4月から数年間は、トヨタ財団のWEBサイトに、…公開されていたが、現在は閉鎖されている」のである。
小松芳喬の指摘を受け、私が幹事会(当時:現在の理事会)に提言したのはドイツ留学から帰国2年後の1982年3月であった。飯塚・内田を除き、他の幹事の反応は鈍かったことが、石田・天野を動かし(中部圏に偏っているとはいえ)「資料件数約7000件、画像データは2万点余」のものを創らせたと言えよう。
石田が言う「産業遺産データベース…(の)デー夕様式は統一されたもの」でなければ「産業遺産の価値を評価しうるデータ群」とはならない。私の当初のイメージも、(小松が報じた)イギリス産業考古学協会が推進する「NRIM(全国産業記念物記録)」と同趣旨のデータを、日本でも全国から収集・収録作成することであった。
飯塚・内田と共鳴したのは、(民俗学を創始した)柳田國男も初期の頃は「葉書」によって全国から情報・データを収集した、という先例である。各地の研究者・アマチュアの質・理解が同一であるとは期待できず、一枚一枚の記録の質に差が存在していても、まず「全国を視野に」することが次のステップへの要であると私は考えている。
(2015.01.11.追記・敬称略)
注
- 小松芳喬「イギリスの産業考古学」(『日本学士院紀要』第41巻第3號昭和61(1986)年、131-183頁+追記1~3)
- W. Minchinton, A Guide to Industrial Archaeology Sites in Britain, London,1984,p.8(小松前掲論文・二の注(27):七大別した研究対象の内容詳細は省略する。小松前掲論文139頁を参照されたい。)
- 小松前掲論文136頁。
- Marilyn Palmer, Industrial Archaeology, in Historian, no.10/1986.pp.10-13(「同上書p.13(から引用)」とある)。小松前掲論文、追記1頁。
- 小松前掲文、追記①頁
- 1945年に設立されたイギリス各地の考古学会の連絡機関(小松前掲論文・三の注16・143頁参照)。
- 小松前掲論文、149頁。
- 種田宛書簡(1979年4月24日)。
- 公明新聞1978年10月26日「産業考古学の可能性」([学芸欄])。
- 朝日新聞1978年11月24日「イギリスの産業考古学ブーム」。
- 『百科年鑑』(平凡社、1979年)、230-1頁。
- 山崎俊雄(木本忠昭編)『日本技術史・産業考古学研究論』(水曜社、1997年)。
- 同上書372-373頁。
- 「技術史散歩」『技術と経済』1968年9,10,12月号(以下連続)~1990年3月号まで(258回);「機械記念物めぐり」『はぐるま』1977年8月号~1988年10月号まで(135回)である。これがあって「明治村機械館に、できるかぎり保存しようと働きかけ」(山崎)ができたのである。
- 大橋周治「日本における産業考古学の課題第二年度に向けて」(『産業考古学』No.6、1978年)、1-3頁。
- 大橋周治『幕末明治製鉄論』(アグネ、1991年)、552頁。
- 天野武弘「飯塚一雄・産業遺産調査の先覚者」(『中部における産業遺産研究のあゆみ創立20周年記念会誌』中部産業遺産研究会、2014年)、130頁。
- 飯塚一雄「灘の酒造り」(「技術史の旅78」:『日立』1983.3所収)、13-15頁。
- 種田宛書簡(1983年4月10日)。
- 飯塚一雄「[インタビュー]土木は集団の作品「大きな芸術性」の発揮を遺構に学ぶ事業成否の分かれ目」(『日経コンストラクション』1991年6月18日号)16-19頁。v
- 種田宛書簡日付無(1993年1月)
- 石田正治「産業遺産データベース構築の課題と展望」(『中部における産業遺産研究のあゆみ創立20周年記念会誌』中部産業遺産研究会、2014年)、70-71頁:引用は71頁より。
- 提言の内容は産業考古学会2014年新年例会セッション「推薦産業遺産の推薦基準について」レジュメ:研究・教育の土台づくり(1)データベース作成の必要(2)博物館・資料館・研究者のネットワークづくりの必要(3)“保存を緊急に要するもの”をどうするか(4)行政への対応・文化財関連法規の学習を始めるべきであった。(内田星美「最初の10年間」『産業考古学』84、1997年、37頁の写真に一部見える)
2014年11月25日 受理
Abstract
This report discusses four vanguards in the first generation of Japanese Industrial Archaeology (=I.A.). I. A. was introduced to Japan from the UK by Yoshitaka Komatsu, Professor of Western Economic History. Toshio Yamazaki, Professor of History of Technology, was one of the founders of the Meiji-mura' (the Machinery Hall) museum that was opened in 1965. Shuji Ohashi, Professor of Economics, laid the foundation for I. A. Kazuo Iizuka, a journalist of industrial heritage, advocated the conservation and importance of civil engineering and landscapes. These four people wrote valuable letters, articles and studies to be reconsidered and discussed, which suggest the formation of Industrial Archaeology.